それは誰かの日常

それは過去の出来事 それは未来の出来事 それはフィクション それはノンフィクション

ばあちゃんさようなら

これは

私の気持ちの記録です。

 

ひとりごとです。

読みたくない人はスルーしてください。

 

***************

 

もうすぐ

ばあちゃんの一周忌です。

 

1年前の7月に

この世を去りました。

 

いつの頃からか

『100までは生きるぞー!

100まで頑張るぞー!』と

100まで!というのが、

口癖のようになっていました。

 

まだばあちゃんが

90歳くらいの時は、

 

私も『ほんとやな。

100まで頑張ろで〜!』

と答えていましたが、

 

毎年毎年ばあちゃんの

誕生日が来るたびに、

そう言えなくなりました。

 

ばあちゃんは「100まで頑張る!」

といつも言っているから、

もし100歳になったら

力尽きてしまうかもしれない。

 

 

人は誰でもいつかは死ぬのだと

わかってはいるけれど、

100歳までという

命のゴールを決めて欲しくない。

 

 

だから、100まで頑張るぞ!

というばあちゃんに

ほんとやな〜と言えなくなりました。

 

 

いつまでも生きていて欲しい。

という思いと、

 

いつかは死んでしまうんだ。

という覚悟のような思いが、

 

 

ばあちゃんの顔を見るたびに

頭の中をぐるぐると交錯するのでした。

 

 

亡くなる数年前から

何回も何回も、今夜が峠です。

というお医者さんの言葉を聞きました。

 

 

その度に、休暇を取って

片道4時間近くかけて

ばあちゃんに会いに行きました。

 

 

会いに行くたびに、

ばあちゃんは

私を忘れていきました。

 

私の弟のことを、

自分の息子と間違えたりしました。

 

私の母である自分の娘のことを

看護婦さんと呼んだりするようにも

なりました。

 

そうやってばあちゃんは

いくつもいくつも峠を越えました。

 

ひょっとしたら

100個の峠を目指して

いたのかもしれません。

 

98個目の峠が見えたとき

ばあちゃんにはそれが

100個目に見えたのです。

 

 

 

大正生まれのばあちゃんは、

数え年で年齢を数えるのが

普通だったからでしょう。

 

 

 

ばあちゃんに

会いに行く予定じゃなかったその日、

いくつかの偶然が重なり、

思いついて会いに行きました。

 

私の顔を見ても

誰だかわかっていなかったと思いますが、

手を握ったら、うんうんと頷いていました。

 

夕方頃から、

だんだん呼吸ができにくくなり、

深呼吸のような…息継ぎのような…

ぱーっ!という

大きな息を吐き出して

 

 

そのまま静かに

永遠の眠りにつきました。

 

 

享年100歳(満98歳)でした。

 

 

ばあちゃんは

100まで生きる!という

自分の思いを全うしました。

 

 

そして

何十年も前に戦死した旦那さんに

やっと会いに行けました。

 

 

 

 

ばあちゃんありがとう。

 

ばあちゃん大好き。

 

ばあちゃんさようなら。

 

 

 

もうすぐ「さようなら」から

1年も経つね。

 

 

やっぱりあちらの世界でも

頑張っているのかな。

 

 

私も

 

ばあちゃんのように

まっすぐに生きるよ。

 

ばあちゃんのように

思いのままに生きるよ。

 

いつも

「私はわがままやけんな」

と、自分で言ってたけど

 

それはわがままではなかった。

 

ただ

まっすぐに

思いのままに

一生懸命生きていただけ

 

素直な気持ちだけで

生きていただけ

 

 

そんなばあちゃんみたいに

私もなるよ。

 

 

一周忌には

また会いに行くから

 

私の顔見たら

うんうんと頷いてね

 

 

ばあちゃん

安らかに…。